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宗教の言う死

「死」というものに対して、人は一種類の死しか考えていない。色々な宗教で言われている「死」は一通りではない。

 

第三者の肉体が機能しなくなって、あえなくなった状態が普通の人にとっての死である。

それは自分にとっての死ではない。

誰も自分の死がなんであるか、語ることはできない。死を経験してみて、「これこれこうでした」ということができないから。

しかし、生きている間に自分が死について理解していることは、わかるはずなのである。それは他人も死ぬから自分も死ぬという類推である。

 

一体死の何が問題なのだろうか。
死ねば、うまいものが食えなくなるということなのだろうか。
死ぬと家族と会えないから?
死ぬとパソコンができないとか、ピアノが弾けないとか、ゴルフに行けないとか、そういうことか?

 

人は死んだあと「お前がどうなるか」ということを考えていない。死後の世界がありますか?いや、あるかもしれないが、「お前はどうなるのか」。「お前」が続いていなければ、死後の世界などあってもなくてもどうでもいいのだ。

家族と会えない、ピアノが弾けない、うまいものが食えない、そうしたことは、単に関係性が途切れるということに過ぎない。それは仮にあなたが120歳ぐらい長生きしてずっと健康だったとしたら、そのときにもそういうことが起こるだろう。元気かもしれないがピアノは弾けないかもしれない。毎度顔を合わせていた孫が先に死ぬ。あるいは、突然今日一人で外国に行くことになったらそういうことが起こる。家族とは会えない。行った先のアパートにはピアノはない。日本でうまいと思って食っていたものが普通に向こうにあるとは限らない。

人々が「死だ」といって恐れているものは、周囲との関係が失われること、自分の立場が変わってしまうこと、あれやこれやを失ってしまうことであって実は死そのものではないのではないか。肉体が死んでもお前にとっての「お前」は死なないに違いない。そう思っているのだ。逆に肉体が死ぬ前に、「お前の死」があってはなぜいけないのだ?

 

宗教の中では死はいくつかの見方で言われる。決して一通りではない。そのことがわからないと、宗教の「死後」というのもとんでもない幻想になってしまう。

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