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肯定的な表現

福音書は肯定的な表現なのだと思う。仏教は間違った側から見た、間違ったことを指摘する宗教だと思う。双方とも別に間違っているわけではないが、教義は全く違うように見える。

 

お釈迦様が、「無明が滅すれば行為が滅し、行為が滅すれば認識作用が滅し・・・」と説いた後、自分が聞いた話では「無明」とか「行為」とかそれぞれの法の実体を論じる「一切有部」の教説が教団を支配した。お経を根本経典とすると、多分そうなる。お釈迦様は「君たちは行為をしているから、その行為が認識作用を生んでいるのだ。だからその行為をやめなさい。」みたいな指摘をしたのだと思う。しかし、本当は誰も行為をしていない。その行為は無明、幻想なのだ・・・

否定的な表現というのは、私自身もよく主張している「昨日はない」というような言い方である。時間というものがあると思っている。本当は今しかないのではないか。昨日は存在していないのではないか。しかし、この言葉が訴えかけるのは、「本当は昨日は存在していないのに当然のごとく存在していると思っている人」に対してしか意味を持たない。

そもそも昨日など存在していないこの目の前のありのままの姿とは何か?ということを何も表現していないのだ。

 

では、肯定的な法則表現、肯定的な実相の表現というものはどういうものか。それは、何かに記されたとしても、普通理解されない。我々がとんでもなく間違っているから、それは本来の意味とは全く違う大きな幻想を生んでしまう。

そして、福音書はそういう本だと思う。一句わかってしまうと、もうそれしかない、ほかに表現はない、というような適切なことを言っていると思うのだ。なんでこれが分からないの?だけど自分も実はわからなかったのだ。そうだと思うなあ。

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