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真反対の評価

キリスト教の歴史を記したあらゆる本が、大抵こういっている。
「初期のキリスト教は、愛と寛容の宗教だった。」

確かにその後いろいろあった。イスラムも起こった。十字軍も魔女狩りもあった。異端審問がありプロテスタントが起こった。日本に限って言えば、島原の乱みたいなものもあった。
直接的に教会の出来事として記録されていないにしろ、第二次世界大戦にキリスト教が関係していないかと言うと、そんなことはない。戦った人々は、日本人を除けばみな「クリスチャン野郎」だった。成員は聖職者でないから関係ないだと?それは詭弁だ。

ま、とにかくいろいろあった。

 

それで、今、多分、かなりの数の日本人がこう思っている。

「キリスト教は排他的で不寛容、残忍な宗教だ。」

真反対なのだ。

これほど真反対の評価があるものだろうか?

 

それが一つの歴史的な出来事を取り上げて、たとえば魔女狩りのようなもの、新大陸の征服のようなこと、九州での人身売買のようなことを取り上げて「お前おかしいじゃないか」というだけであれば、それは歴史を検証し、正すべき点があれば正し、反省すればいいことだ。

教義自体も表向きは変わってはいない・・・はずだ。だが、その排他性、不寛容、残忍さを容認するような何かを教会は認めてしまっているのではないかとも思う。

つまり「これはダメだ。つまりお前は地獄行きだ。」と言ってしまえるような、適当な口実、そういう風潮が全体的に定着してしまっているのではないか。
お前の親父は仏教徒で洗礼は受けていない。残念ながら地獄行きだ。
お前は占いをした。地獄行きだ。
あれをした、これをした、こういう信仰である、偶像を拝んだ、神社に初もうでに行った・・・地獄行きだ。

それ、本当にもともとそうだったのか。それだけだったのか。そんなだったのか。
どうも、疑わしいような気がする。

西洋人は、ある意味、教会に愛想をつかしてしまっている部分はあると思う。

どうせ、所詮、教会だ。あんな重しはもうたくさんだ!

そして、彼らは未知のものに走る。禅はどうだ。インド思想は?
日本の仏教だって、中にいる者にとっては、いろいろな負の歴史も抱えた面倒くさいものかもしれないが、彼らは自分たちにないものを見つけて高く評価している。

 

多分、はじめはそうではなかったと思う。今「はじめに戻れ」と言っている人々は、ますます不寛容になる傾向にある。純粋さはあるべきだ。ふしだらなもの、破廉恥なものを認めろと言っているわけではないのだけれど、なんかおかしい。

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