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名色

名色は仏教の言葉で、もともとはナーマルーパという。名とは名前であり、色とは物質的な存在を示す。名称と形態などと訳されることもある。お釈迦様がブッダガヤで成道されたときに悟られた内容は大きく2つ伝わっており、四諦と十二縁起である。十二縁起というのは仏教の方はよく御存じだろう(?)と思うが

「無明によって行が生じる。行によって識が、識によって名色が、名色によって六処が、六処によって触が、触によって受が、受によって愛が、愛によって取が、取によって有が、有によって生が、生によって老死が生じる。

無明が滅すると行が滅する。行が滅すると識が・・・名色が・・・六処が・・・触・・・受が・・・愛が・・・取が・・・有が・・・生が・・・老死が滅する。」

ということである。現代語でいうと、ある種の無知によって行為が生じ、行為によって認識が、認識によって名称と物質的形態が、物質的形態によって感覚が、感覚によってその感覚に触れることが・・・というようなことになる。

 

私たちは常に頭の中で何かを考えている。言葉を繰り返している。

たとえば欲望というようなことを考える。欲望というと大げさだけど、もっと単純に、たとえばシェイクを食べたいとしましょう。あそこの角に美味しいシェイクが販売されているハンバーガー屋がある。では出かけることにしよう。着替えて靴下をはき鍵をかけて出かける。道を歩いている間今日は道路のわきで工事をやっている。いったい何をしているのだろう。

私たちは、シェークを食べるまでずっとシェークのことを考えているわけではありません。まっすぐにその目的に向かって歩いているわけではなく、その間は別のことを考えています。その欲はどこにあるのだろう?

シェークは未来にあり、欲望の対象です。シェークは未来そのものです。だけど、実は未来はどこにも存在しません。過去に私たちはシェークを食べた快感を覚えていて、それをもう一度体験したい。しかし、匂いを嗅いでなんとなくハンバーガー屋に立ち寄るわけではない・・・そういうケースもあるけれど多くの心理的行動は違う・・・のです。

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未来が存在しないなら、そのシェークはどこにあるのか。そのシェークという言葉以外に、シェークの実体はあるのか。未来はどこにあるのか。

別にシェークでなくてもいい。こうなりたい。こういう風に人から見られたい。その未来というもの、その欲望の対象というものはどこにあるのか。

 

ある言葉を発している間、その言葉の指し示すものはずっと存在していなければならない。シェーク、と言っている間、シェークは存在し続けなければならない。あるいは欲望が存在している間、その対象は変わらずに存在し続けなければならない。シェークが食べたいと言って、その行動を起こしてそれが満たされるまで、そのシェークという対象が存在し続けなければ、シェークに対する欲望が維持できない。

しかし、実は今しか存在しない。シェークは見ている間に溶けるかもしれない。いつの間にか違うものになるかもしれない。それ以上に目の前に今あるものは心で追いかけることができない。認識したものは必ず過去のものだ。

実は認識によって、つまり「これはシェークだ」という判断によって、欲望や行為の対象となり得るようなシェークという名前を持ったものが出現する。それが名色です。実はそういうものは存在しない。

 

で、世界は名色で出来ている。
もし、心の沈黙が得られて、欲望の仕組みを理解して、その対象が消滅したらどうなるか。

そのことをお釈迦様は言わなかった。嘘も方便と言った。どう言葉で表現したところで、その先に見られるものを正確に言い表すことはできない。言葉にした時点で、新たな名色ができ、心のリストに新たな語彙が一つ加わるだけだ。ひょっとするとそれ以上の不要な幻想すら生むかもしれない。私ができるのは「火事だ」と叫んであなた方を家の外に連れ出すことだけだ。そのようにして家の外に出なければ、あなたがたは決して私の言おうとしていることを理解できないだろう。

 

あなた自身が、それを追い求める思考であり、繰り返しの運動であり、輪廻である。あなたは決してそれを見つけることはできない。盗人のようにその日はやってくる。あなた方にはいつそれがやってくるのかわからないからである。この日、空間と時間は消滅する。世界は崩壊する。あなたは繰り返し何かを求めて、その先に求める対象があると思っていた。だけどその日その対象は実はなくて、何か違ったことが起こっているのに気が付く。

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