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心の貧しいものは幸いである?

山上の垂訓で有名な、マタイ5章の3節以降のところだが、日本語的にはどうも違和感のある言葉だと前々から思っていた。

心が貧しくて、いいわけがないじゃないか。ぼろは着てても、心は錦、それがいいでしょう。

 

だけど、ここのところしばらく自分はギリシャ語で漫画を見てみてみたり、ニュースを聞いてみたり、インタビューを聞いてみたりしている。その中で、プルーシオス、プトホスという単語はどこかしら出てこないわけではない。プルーシオス、プルーシイ(複数形)というのはリッチな人でプトホス、プトヒ(複数形)というのは貧者のことである。

それであるときふと気がついた。

 

マタイのその問題の言葉は

Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.
(マカリイ・イ・プトヒ・ト・プネヴマティ、オティ・アフトン・イ・ヴァシリア・トン・ウラノン)

と言う言葉です。下のカタカナは今のギリシャ人が読んだときの一般的な音です。マカリイが幸い、プトヒが貧者、ト・プネヴマティは精神の与格で、精神において、と言うような意味になる。

 

日本人の多くが聖書をできる限り和語で訳そうとしている。漢語ではプトヒは貧者と訳すれば良いが、和語では一つの単語が存在しないので「貧しい人」と訳そうとする。
そして、プネヴマのような単語は現代日本語では当然「精神」なのだけれど、こういう言葉を当てるのがどうかと言うことになって「こころ」と訳してしまう。
いったん「貧しい人」と二つの言葉に分けてしまうと「心の」の「の」は日本語で通常主語を表すため貧しいのはその人が貧しい人なのではなくて心が貧しいのだと聞こえてしまう。

こうした結果、私たちがその文を見たり聞いたりしたときに

「心が貧しい、そういった人は、いいんですよ」という意味に聞こえてしまう。

 

実はこれは完全に間違った訳なのではないか。

 

つまり、プトヒ、貧者というものは一般的な概念としてすでに存在している。それは切り離すことのできない一つの単語である。金持ちが天国に入るのが難しいと別の箇所に書かれているように、最初から貧しい人というのは一つの概念である。貧しいというのは人が金持ちでないと言うことを言っているだけで、別段心が貧しいわけでも、精神的に貧弱なわけでもない。

そして、その貧者、貧者という態度・人間のあり方を、自分の精神において実際に行っている人は幸いである、というのが、多分ギリシャ人が聞いたときの普通の聞こえ方だと思うのです。

 

いやまあ、ちょっと考えれば当たり前のことかもしれないけど、あまりにも語感が違うような気がしましてね。

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