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最初からわかっているなんて

本当は最初からわかっているなんてありえない。その考えることは必要なことなのだ。

 

ホンマはどやねん。それがあるはずだ。ああでもない、こうでもないと頭を柔らかくして考える。そのプロセスが必要なのである。

そして、それでわかるから真理は真理なのだ。真理はパズルではないから考えるだけでわかるわけではないけれども、それでも「なるほど、そうだったのか」という真理は存在する。

 

ところが、キリスト教はそういうプロセスを捨ててしまった。元々はそういうことを考えて作られていたのである。それが教会というシステムだった。必要な概念を繰り返し繰り返し唱えたり聞いたりして、それは参加している多くの人の心に刻みつけられる。そしてあるときに「あっ、このことだったのか」と気が付くように仕組まれていた。

 

幻想の幻想の幻想。

 

今、さまざまな教派の指導者の皆さんが「わからないけれども、わからないから信じる」と強弁している。それは嘘だ。少なくともある程度納得できなければならない。

実際のところ、わかってしまえばキリスト教ぐらい具体的で詳しい概念を説明している宗教はないと私は思う。

4 thoughts on “最初からわかっているなんて

  1. ネコ

    こんばんは、ネコです。
    最初からわかっているなんてありえない、
    そうかもしれません。
    「見ないで信ずる者は幸いなり」
    この真意はよく解らないけど、
    ある日、「ああそうだったのか!」と思う事が確かにあると思います。
    ここでちょっとお聞きしたいことがあります。
    ギリシャ語です。
    聖書の中で、
    イエスが奇跡(奇跡の定義はさておいて)を行う箇所が多くありますが。
    「イエスは癒された」という箇所ですが、
    癒されたのであって治したのではないという説があります。
    ギリシャ語で、「癒す」と「治す」と近いものがありますが
    日本語では「癒す」と「治す」とでは違うような気がしますが。
    (今、私のパソコンでギリシャ語変換入力ができないので書けませんが読むこと、受けることはできます)
    ギリシャ語の示すところで本当のところどうなんでしょうか?
    勉強不足で解りません。
    興味深いものがありますが、解りません。
    ご意見とか、それはこのようにとか、お教えいただけたら幸いです。

    返信
    1. simpledirect 投稿作成者

      ネコさん、こんにちわ。

      イエスが治したという箇所では大体θεραπεύωという単語が使われ、病人が癒されたという箇所ではἰάομαιという単語が使われています。
      ἰάομαιは病気から快復するという意味で、おそらくἰατρός(医者)などと関連する言葉だと思います。
      癒すという言葉が、のどの渇きをいやすとか、苦しみを癒すとか、病気から治癒するという以外の意味で日本語では使われますが、ἰάομαιがたとえばのどの渇きをいやすとか、そういうことはないとは思います。病気からの快復という意味だと思います。今ではθεραπεύωについても所謂セラピーというような単語として使われていますが、治癒するということで問題ないと私は理解しています。

      返信
  2. ネコ

    早速のご返信ありがとうございます。
    癒すと治すとは違うという説を聴いて、
    (イエスは癒されたのであって病気を治したのではないという説、)
    語源はどうなっているのだろうか?と思いまして。
    では、
    イエスの奇跡はどうなっているのか?どうとらえているのか?
    軽々しく論じられることではありませんが、、
    「最初からわかっているなんて、、」そうなんですよね。
    確かに真理は存在する、、。
    ありがとうございました。

    返信
    1. simpledirect 投稿作成者

      ネコさん、こんばんわ。

      色々な奇跡についても、自分はあれやこれやで徐々に納得していっています。
      しかも、いろいろな奇跡がある。
      たとえば触っただけで病気が治るというのは、イエスでなくても多くの記録があります。
      しかし、一つのパンを割いて五千人を満腹させたという話はあまり聞かない。
      自分も最初に聖書を読んだときに、なんとなくありそうだと思うことと、こんなことは現実にはちょっとありそうにないと思うことと、分けていました。
      だけど、徐々に自分に対して説明していっています。そのためには何よりも自分自身がもう一歩だけ進むことが必要だと思います。すべての奇跡を解説することは難しいと思います。

      もう一つは、中間的な事例の存在です。ネコさんにあまり申し上げたくないのだけれど、プロテスタントさんでは多分あまり注目されない。なぜかというとその部分は往々にして聖伝になってしまうから。

      アトス山のイビロン修道院に聖母のイコンでポルタイティッサとよばれる有名なものがあります。このイコンは聖像破壊運動のおりに、コンスタンチノープルで海に捨てられたのですが、そこからハルキディキ半島のアトスに流れ着いたわけです。
      そこで人々は船を出してこのイコンを回収しようとしたのですが、船を近づけるとイコンは逃げてしまう。すると、山の中で修行している人が出てきて、主がなさったように海の上を歩いてそのイコンを拾い上げたというのです。

      本当は、主のお弟子さん、お弟子さんのお弟子さんのお弟子さんみたいな人でも、福音書でイエスがなさったような奇跡を行うことができたという事例は伝わっているのです。
      コンスタンチノープルの総主教の誰それが奇跡を行ったとか、迫害されたどこかの聖者が信じられない拷問に耐えた後殉教したみたいな話は山ほどあって、それが代々信者さんに語り継がれているのであれば、本当はそれを疑う理由など何もありません。本当はそういう聖人はプロテスタントでも認定されているはずだとは思うのですよ。でも、多分それほど取り上げられないのではないでしょうか。

      そういう中間的な事例があれば、福音書の奇跡についても、受け入れる幅ができると思うのです。

      返信

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