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たとえば瞑想中のこと

福音書、その一見謎めいた喩、それが瞑想中のことだと考えた人はいないのだろうか。

 

その、宗教的な何かを求める人は、単に生活苦から逃れるためというような人もいるかもしれないが、ハッキリ何かを求めている人は少なくないだろうと思うのだ。東洋人なら悟りを求めるというだろう。悟りなのか、覚醒なのか、神秘体験なのか。キリスト教徒では殊更に聖霊の体験などという人もいる。もっと単純に神を求める、という人もいる。

とにかく、何かわからないけれども、普通には知ることのできない何か、経験することのできない何か、を求めている。何か、その確証が欲しい。「ああ分かった」「ああ本当だった」といえる何かまで到達したい。

 

それを求めるときに、「それは求めて得られるものではないのだ」というテーマは常に出てくる。瓦を磨いて鏡となす。瓦を磨いても鏡になりましょうか。坐禅をして仏に成れようか?

そしてこの「求めて得られるものではない」という感覚は福音書全体を支配しているものである。いやまあ、求めよとは言われていますよ。しかし、いつ来るものなのか、それが全くわからない。「あと3曲でバイエル終了します。その後ツェルニーやります。」というようなものではない。いつ主人が戻ってくるのか全く分からないのだ。そのステップがいつ来るのかやっている最中にはわからないのである。だから油を絶やすな。目を覚ましていない。

 

福音がイコール蓮華座を組んで瞑想することだとはいいませんよ。だけど、もし瞑想したり坐禅したりしている人で、福音書を読んだときに、あなたは「あっ!そのことが書いてある?」と誰も思わなかったのだろうかね。そこがとても不思議だ。

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