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主人のいない家

わたしは私ではない。
わたしは彼だ。
彼は私の傍らを通るが見ることは出来ない。
時々、彼を見ようと思うこともある。
時々、彼を忘れることもある。
私が話すとき、彼は静かに、黙っている、
私が憎むとき、彼は優しく、許す、
私がいない所を彼は歩む、
私が死んでも彼は立ち続けるだろう

(ファン・ラモン・ヒメネス <永遠>より 伊藤武好・伊藤百合子訳 彌生書房 ヒメネス詩集)

福音書では、たびたび「主人のいない家」の譬えが出てくる。
その主人がいない家というのは、人のことを言っているように聞こえる。

自分に何か取り組んでいる人、瞑想している人、仏教を学んでいる人、そういう人は自分の考えや自分の行為をコントロールしようとしたり、抑制しようとしたり、客観的に見ようとしたり、静かにさせようとしたり、様々に努力をしている。

そうすると、当然「私の意志とは反対にこのように考える思考」みたいなことが当たり前に観察されるようになる。私がそれをやり、私がそれを考えているはず。しかし、私はそう願ってはいない。静かにしろ!しかし「静かにしろ!」と言っているのが当の私自身の考えであり行いではないのか?

一体私は誰なのか?まじめな仏教徒、まじめな東洋人なら、誰でも抱く問い。

その大雑把な帰結が「私は私ではない」ということになると思う。

ヒメネスは実にきれいにそれを表現し、おそらく直感している・・・彼はキリスト教に対して決して肯定的ではなかったが。

 

もし、「私は私ではない」ということが、一応の理解ができただけでも、多分福音書は別の光に照らされる。多くの人はこういう「私は誰の奴隷にもなったことはない・・・私は私だ!」しかし、あなたが僕に過ぎなかったら?

そしてキリストは念を押した。「あなたは僕に過ぎないと覚えておきなさい」
彼がいなくなるのに、なぜ「僕に過ぎない」と覚えておかないといけないのか。

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