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外来語 (4)

昨日、新聞にグリーフケアつまり遺族への配慮について書かれていて、母が私を呼び止めて、「新聞に『グリーフ(悲嘆)』と書いてあるけど、これは普通に『悲嘆』と書いてはだめな言葉なのか」と聞いてきた。

私は、自分が英語の歌とか英語の文章とか出てきたときにgriefと出てくれば、それは悲しみのことだと知っている。それは親族を失った場合にも使われるかもしれないが、そうでないといけないということはない。そうですね、「悲嘆」で別にいいのではないでしょうか。

 

そういうことは度々ある。若いころギリシャ語を学び始めたころに、τραῦμα(トラウマ、トラヴマ)という単語が出てきて、辞書を引いてみると「傷」だった。OK。傷だな。

ところがそれからしばらくすると日本語の中でトラウマという言葉が使われ始めた。自分は当然最初それは「傷」から来た言葉だろうと思ったが、しかしどうもそれは何か特別な意味で使われているようだった。後でそれはショックを受けた時の心的外傷にのみ使われる言葉だとわかった。

 

こういうことは、思うに、物事をあいまいにし、決定を遅らせると思う。

子供のころから読んできた童話だとか昔話、小説とかの中に「深い悲しみ」と書いてあって、ある日突然新聞には「グリーフ」と書かれ始めたとしたら、昔読んだ物語の悲しみと、新聞に書いてある「グリーフ」が同じものだと思うだろうか?

その人が実際の体験として身近な人間をなくしたことがあり、それを自分が読んだ物語と関連付けて理解して「ああ、人が亡くなったときの悲しみというのはこういうことだったのだな、あのとき物語の主人公はこう思ったのだな」と自分の中で消化した後で、グリーフなのだと書かれていたとしても、それが同じかどうか、一歩足踏みをすると思うのだ。

我々は日常生活の中でグリーフなどというカタカナ語を使わない。

「先日ご主人がお亡くなりになったそうで、大変なグリーフでございましたね」

なんて言わないでしょ。「ときどきどうしようもなく悲しくなるよね」とか、普通の日本語で会話するでしょ。そしてその「親しい人が亡くなった場合の悲しみ、喪失感」みたいな言葉で訴えかけられれば、実際にそれを経験した人もすんなりその世界に入っていけるし、過去の日本語の遺産も使うことができると思うのです。

しかし、そこで訳すことなく未知のカタカナ語が入った場合、私たちは自分の内的にも「それが同じものである」ということを感じることにためらいを覚えると思う。
あなたがカリフォルニアの友達のところに行って、「Oh! such a grief」なんちゃらなんちゃらと会話して、「おお、彼女もご主人をなくされた悲しみを感じているのだな」と思って初めてgriefは生きた単語になる。それはアメリカに行かなきゃだめだ。

そういう経験の裏付けのない単語には気持ちがこもらないし、次の行動につながらないと思う。
いなかのおばあちゃんは「なんかわからないけど、横文字で演説されました」みたいな受け取りになってしまうだろう。あなたのための言葉なのに。

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