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今更、運転しながら福音書

イオアンによる聖福音経を、やっと各章録音した・・・最初の録音2015年だよ。なにやってんだよ!たった21章だよ?

そして、USBメモリーに入れてカーステレオに刺した。

福音書なんか、中学校から読んでる。その、最初の「新約物語」みたいなやつは、確か小学校4年ぐらいのときに学校の図書館で読んだと思う。今更、何?

 

フォマ(トマス)が、熱いねえ。今度行ったら、先生、殺そうと待ち構えている人がいますよ。でもハリストスは行く。そこでトマスは「我々も先生と一緒に死のうじゃないか」と言っていくわけですよ。この人が後にハリストス復活の後、一人だけ彼を見ていなくて、「俺はその傷口に手を入れ、その槍の後に指を突っ込まなければ絶対に信じない!」と他の使徒と言い争った人です。

 

なんか、あれ日曜日でしたっけ?西田敏行と竹下景子がラジオドラマをする曜日がありますよね。俳優さんというものは、同じ本、同じ台本、同じ字面であったとしても、一発で視聴者を感動させるように読まなければならない。覚えていないとか、つっかえるとかは論外。あっ、なるほど!と思わせなければならない。

自分の声を録音するということは、そこまでのクオリティはできないんだけれど、ある意味において同じことを求められる。後で自分か、あるいは誰かがその録音を聞く。すると、「あれっ、この漢字の読み方、わかんないや」ということはダメですから、少し練習してから読むことになります。

で、そのように読むということは、福音書にとっても別の発見のような気はします。そう、竹下景子と西田敏行が、聞いている人を飽きさせない臨場感で読むように読むんですよ。書いてある内容、理解の内容は、何年も何年も問い続けてきた事柄、同じ事柄かもしれない。でも、やっぱり違う。

 

プロテスタントさんは聖書絶対主義で、福音書は神の霊感で書かれたという。そういう人からすると批判されるのかもしれないけれど、単純な話、ヨハネは福音書を書いた時に、それでいいのかどうか、詠み返しただろうと思うのです。簡単に言えば、推敲があったと思う。書物として、物語として、記録としての力にいわば圧倒される。そして内容はとても魔術的なものだ。

もし、それで「福音書のここにはこう書いている。一方でローマ人への手紙にはこう書いてある。したがって矛盾ない解釈はこれこれである。」みたいなのとは、違う結論を導き出しそうな気がします。普通そうだと思うんですよ。どっちかだけ読んで、よくわかりました、手を置いて人を癒したりできるようになりました、やっと納得できました・・・ついては他の本も読んでみよう!ということには普通ならない。大抵はあれもよくわからず、これもよくわからないままになっているにもかかわらず、「あれとこれを比べてみると、これこれならこう矛盾し、あれがああだとすると、ああ矛盾する。ついては天国はこのようなものであるはず」みたいな議論になってしまう。それは正しいの?

ヨハネはこれを書きたくて書いた。書かなくてはならないと思った。彼の記述の中では、それは生き生きとしていて、説得力があり、その中で「あっ、そうか!」という気づきがなければならないという気がします。あらためて、「こんなすごい迫力のある書物だったの?」と思います。

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