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裁くな

「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、じぶんもさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで自分にも量り与えられるであろう。なぜ兄弟の目にあるちりをみながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟に向かってあなたの目からちりを取らせてください、といえようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイ7.1~5)

 

これは旧版の聖書協会の新約である。

この訳を見れば、普通は道徳的なことを言っていると考える。裁判員制度に参加しちゃダメだよ、みたいな意味に見える。自分でよく知りもしないのに他人のことをあれこれいうな、みたいな意味にとらえる。

もう少し平易に書き下せば、「他の人をあなたは判断したり決めつけたり断罪したりするな。あなたがほかの人から判断したり決めつけたり断罪したりされないためである。」という意味のように思える。

 

だが、多分それは間違いなのだ。

 

ギリシャ語の新約には「人を」とか「自分が」とかいうことは書いてない。

「さばくな、さばかれないように。」

「さばくな」というのはアルファベットで書くとme krineteとなる。本当はギリシャ文字で書けばいいが、この画面は携帯の人が見ている可能性もある。krino(一人称単数、私はさばく)というのは判断するという意味もある。識別するのもkrinoだと思う。あっ、こうだ!と思うことがkrinoである。ちなみに日本語では「さばく」には2つの漢字が与えられていて、他人の罪の報いをうけさせるのは「裁く」で、何かをより分けるのは「捌く」と書く。要するに、はっきりしないものを、これはこちら、これはあちらとはっきりさせて分けることだ。

ちなみに「はかる」というのはmetroという言葉で、地下鉄のメトロなどと同じ言葉である。いれものとは限らない。物差しであり、単位を示すものである。

 

さばくな、というのは私たちに対していわれたことだ。だが、何をさばくなと言っているのだろう。そして、さばかれないため、というのは私たちが誰にさばかれるのだろう。

 

実はさばく、判断し、認識した瞬間に、われわれ自身もその判断によって決定するのである。私たちの思考のことを言っており、私たちの外側・内側で発せられる言葉のことを言っているのだ。さばくのは、今日いまここで私たちがさばくのである。判断するのだ。そして、その判断ということのほかに、あなたはない。その判断があなたを決定しているのだ。

 

「こいつ、あほちゃうか?」と思ったとする。

そのときに、普通は「こいつ」がいて「私」がいて、「私」は何らかの点で常識人でありまっとうな判断ができる人間であり、「こいつ」はおかしい人間であるので、優越している「私」が「こいつ」を判断して「こいつ、あほちゃうか?」というと考える。普通は。

 

だが本当はそうじゃないんだ。見てて皆さんは気が付かれているでしょう?「こいつあほちゃうか?」というようなことを、安易に口にしたり思ったりする人と、そうでない人がいる。「こいつあほちゃうか」という判断があなたを作るのです。

そして、それは「こいつあほちゃうか」だけではなく、すべての判断、すべての心の動き、注意が及んでいない漠然と考えるすべての思考がそうなのです。

 

問題は「自分の目の前から梁を取り除いた」状態を誰も知らないことなのです。それは、はっきりしたある状態なのです。人はずっと考え続け判断し続け、それに心のすべてのエネルギーを使い切ってしまっている。だからそれ以外のものを見たり知ったりすることができないのです。

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