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カトリックの選択

こんなことを考えているのは、多分日本でも自分だけだろう。単なるたわごとと思っていただければいいが・・・

昔カトリックの人に、ミサというものはいつやるのですか、一日に何回もできるのですか、みたいなことを聞いたところ、朝夕で一つの聖堂でミサをするということがあるらしい。

正教会では1日に聖体礼儀は1回しかない。規定でどうなっているのかは確認していないが、多分1回以上はやらないことになっていると思う。それだけではなく、正教会の1日は一つの神の救いの業(経済)の象徴になっている。つまり、夕方は創造と楽園の追放であり、朝は様々な救いの業であり、その完成されたものとして聖体礼儀がある。

その祈祷形式は非常に完成はされているが、それは膨大な量があり、生活習慣の中にそれを組み込むのは大変な労力が必要である。そしてギリシャ、ロシアではそれは多分非常に成功したのだ。下々の農民であったとしても、一通り教会に行くだけで、気づく人はそのエッセンスに気づき、膨大な知識を手にしただろう。

 

カトリックのミサにおいては正教会の朝の祈祷、早課でうたわれるグローリアがミサに組み込まれている。昔、カトリックから正教会に転向した人から話を聞いたことがあって、カトリックは多分早課の部分を短縮してミサに押し込んだのだろう、みたいなことを聞いたのだが、あんまりその時はピンとこなかった。しかし、今になってみると、その考えがすごく的を射ているように思われてきた。

おそらく法王グレゴリウスは、ギリシャ語で出来たその膨大な祈祷体系をラテン語圏、いやラテン語すらおぼつかない西洋の後進地域に広めることに対して、ものすごく困難だと考えたのだろう。そして、キリスト教の祈祷全体を、「まあ、これだけやればいいですよ」というコンパクトな形式にまとめたのだ。朝でも夕方でもいい、1時間ほどのこれをやればいいですよ、みたいな形にしたのだろう。

 

自分はギリシャのものを見たから、その効果のほどというのはわかるように思うのです。ただ、その場に立った時にカトリックの選択がどうだったのかというのは、ある程度評価できるのかもしれない。日本語はヨーロッパの言語とは全く違う言語である。正確な訳というものを求めていくことが極めて難しい。完全なキリスト教がその形式ごと日本に布教されるということは、相当な困難があるだろう。

本当はその本質を得て、「これなのだ!」という知を持った人が、その作業をすべきなのだろう。

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