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7つの世界 (9)

7つの世界の話をいろいろ書いてきたのだけれど、多分これは「面白すぎる」と思う。「興味を引く話し」でありすぎる。いくらでも遊べる。絵空事、幻想に一枚座布団を重ねただけ、ということになってしまう。

 

19世紀~20世紀の聖者として有名な人でインドにラマナ・マハリシという方がいる。この人は17歳で死の恐怖に襲われた。そこでラマナ少年は体の活動を止め、出来ることなら呼吸も止め、思いとかすべての生命の活動を止めてみようとした。その結果「私」は実は「神」であるということがわかった。彼はずっと「私は誰か」という問いを世界に発し続け、西洋人にとってもアッシジのフランチェスコに比べられる聖者として知れ渡ることになった。

しかし、彼の著作を見てみると、その中にはインドの思想が垣間見える。アートマン(個我)はブラフマンに一致する。塩で作った人形が海に溶けるように個我は神の中に溶けてしまう。ちょうどムハンマドが博学な奥さんのおかげでその起こっている現象が預言だとわかったのと同じように、彼は自分が体験したことが実はインドの聖典の中に記述されたことだと後に気がついたのだった。

 

「私は誰か」というような単純な宗教的取組というものは、単純な結果を期待すると誰もが思う。仏教でも同じである。「悟りを開く」「解脱」というような、単純な目標があって、そこに到達すると富士山のてっぺんに登ったみたいに何もかもわかる、みたいなことを期待しがちである。

しかし、本当はそこで見える景色、そこで知ることができる真実は、求道中に見えるてっぺんの景色とは違うものだ。同じでもあり違いもする。ラマナ少年も「実は私は神だ」と思って始めたわけではない。俺は死ぬ。その俺とは何か。話したり考えたり息したりしている私とは何か、という問いから始めたに過ぎない。しかし、結果は全く予期しないものだった。

キリストが言うとおり、新しい葡萄酒には新しい皮袋が必要になるのである。

マハリシ師の場合、その皮袋はインドの聖典だった。それでなら説明がつく。

 

そして、至聖三者の教義こそがキリスト教の中心的教義だ、ということを広めた初期の師父たちは、そういう問いに対するもっとも秩序だったものとして、その教義を用意したのだった。あなたの人生・命ということ、あなたの心ということ、そういう問いに直結するものだった。

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