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祈りの言葉

プロテスタントさんの祈りというものは、自分は会えて経験したことはないのだけれど、基本的に自由であって、そのときの祈りの言葉を信者さんが考えて祈ることになる。

正教の祈りの場合、そういう祈りがあってはダメだということはなくて、実際に多くの人が自分の言葉で祈ってきたわけだが、膨大なそうした祈祷のストックがあって、通常はそうした先人の言葉を借りて一定の形式で祈祷するわけである。

多分仏教の読経も後者のほうに近いわけで、前者に近いことをしているのは、多分禅の偈ぐらいなものではないかと思う。

 

有名な宗教者さんの著書で新聞に広告が載っていたりすると、「こりゃないだろう」という言葉だったりすることがある。その宗教に入っていれば「心」「平和」といった、世間一般ではなんとなく使われている言葉であっても、特別の意味があることがある。そして、その言葉はその宗教の中では真理なのだ。と、口当たりのいい言葉が並べられていたりしても、「こいつ何にもわかっとらんな」というのがバレバレだったりする。

あるいは、「こうした場合、信仰するものとしてはどうしたらいいでしょうか」というような悩みがあるケースがある。そうしたとき、そもそもそうした場合どういう心構えでいればいいのか、それは祈祷文の中に示されていないのか、と思うことがある。日本で生活していて、様々なよくないと思われる行為から完全に遠ざかっているということはとても難しい。そういう場合、実は先人もそうしたことはちゃんとわかっていて、罪人を許す主だとか怒るに遅い主だとか、そういうことは祈祷文の中に入っている。

 

そうすると、自分が祈祷するのが、どういう前提でどういう相手に祈るのか、自分はどういう状況で祈るのか、どのようなことが祈られるべきなのか、それをきちんとした言葉にすることはとても難しい。それを自分の言葉で表現しようとするのも重要ではある。よく考えて推敲しなければならない。しかし、その前提条件になるべきものは、キリスト教の場合かなり高いレベルに設定されている。それがないとどうしても勢い「転んでひざをケガしたから直してくれ、車が壊れたからローンを工面してくれ」みたいな、「おい、そりゃ改めて神様に頼むことか?」という祈祷になってしまう。

言葉というのはすさまじい力を持つもので、あちら側から一つの言葉を引っ張ってくるとそれは「天にかかった梯子」の役割をし、その言葉を伝って多くの人が天に上ったり下りたりする。自分は伝統の中には宝があると思う。

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