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六祖慧能の風幡

大河ドラマ「女城主直虎」第5回で、主人公の次郎法師、のちの井伊直虎が六祖慧能の風幡について語っていた。倒れた小野が過去にいろいろ画策していた事の真偽を確かめようとして、小野が割と素直に自分のしたことを打ち明けて、自分を恨むか、咎めるか、というようなことを聞いた時に、次郎法師がその逸話を持ち出した。

珍しい。作家さん、立派だね。

 

六祖慧能は、禅の世界の中興の祖みたいに言われていて、禅の世界、仏教の世界では、この上もなく慕われている方の一人だ。六祖というのは達磨さんから法を受け継いで六番目のお師匠さんということです。

もともと文盲の木こりだったが、山中で誰かが金剛般若経を読誦するのを聞いて忽然と悟り、五祖弘忍に師事し飯炊きを行っていた。五祖はその優れた気概を認め、ほかのいわば洗練されてお勉強のできるお弟子さんたちを差し置いて、この飯炊きに法を継いだ。

ある時、二人の雲水が旗の動くのを見て「あれは旗が動いているのだ」「いや、あれは風が動いているのだ」と論争をしていたところ、六祖は「これは風が動くのでもない、旗が動くのでもない、心が動いているのだ」というと、雲水たちは悟ったのだという逸話がある。何を悟ったのか?

もっとも次郎法師は六祖の名前は出さず、人によって見方が違うものだという譬えとして語った。

 

しかし、禅のお師匠さんの話がこういうテレビの一般の場で出てくるのを自分は初めて聞いたように思う。なんで?

考えてみると、その辺のお寺さんが風幡の話をして、檀家さんが「なるほど」と言っているというのも、あんまり聞いたことがないような気はする。

自分でわかんなくても、話をしないことには、誰も理解できないじゃないか。

2 thoughts on “六祖慧能の風幡

  1. gum

    つい昨日の話ですが、いろいろと思うところがあり、岩波文庫版の「無門関」を読みました。

    で、この公案があったわけですが、この公案では、「旗が動くのでも、風が動くのでもない、お前たちの心が動いている」と慧能禅師は言います。

    その一方で、無門禅師は「動いているのは、風でも旗でもいわんや心でもないぞ」こういうわけですが、では何が動いているのかというと、物理的に考えると「目が動いている」こうなるでしょう。

    そういうと、「私は目を動かしていないぞ」。こういう人が出ますが、人間の目は本人の意思に関係なく細かく動いています。これを「固視微動」と言います。

    では、固視微動が無くなるとどうなるかというと、人間は目が見えなくなります。

    これは、映画のフィルムで考えるとわかるのですが、フィルムは数百メートルの長さがあり、それが一コマ一コマのフレームに分割されていて、そのフレームに静止画が記録されていてその静止画をフィルムを一秒間に24コマの割合で回転させて、連続して投影することで、「動画」を上映するわけです。

    そして、人間の目には、この「フィルムを回転させる」機能がないわけです。すると、人間の目におけるフィルムにあたる網膜に、フィルムの一つのコマに連続して静止画が記録されるのと同じになり、それでは何を見ているのかが全く分からなくなります。つまり、「見えても見えない」状態になるわけです。

    それを防いで、網膜が一定の間隔で細かく動くことで、フィルムのコマ送りとおなじ状態を作るために固視微動が起こるわけです。

    つまり、「人間の目が細かく動くことで、自分の周りで起こる出来事が「動画」として認識される」こういうことですね。だから、「風で旗がはためいていることが動いている出来事として見える」と。

    ただ、この公案に関しては、むしろ「第三の案を考えてみよ」こう無門禅師は問いかけているのでしょうが。

    組織内で、「A案がいい」、「B案がいい」と言って、激しい対立が起こり一触即発の状態にあるときに、A案でもB案でもないC案を誰かが提示することで、一気に膠着状態が打開されて物事がうまくいく。こういうことは往々にしてありますが、この公案はそういうことのできる人物の重要性を説いているのではないでしょうか?

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