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六祖慧能の風幡 (2)

前の記事 この記事は書いたものの、何を慧能が言おうとしたのかについては、パスしていました。これを説明するのは大変すよ。ところがコメントをいただきました。だけど、せっかくコメントを頂いて悪いのだけれど、これはダメです。すみませんねえ。

コメントのいくつかの点を取り上げてみましょう。

  1. 心が動いているのでもないといった人がいる
  2. 視覚のパラパラ漫画説

まず1番ですが、自分は、無門関とか碧巌録とかちゃんと読むといったことはしてないので悪いのですが、道元禅師が正法眼蔵で妙信尼を称えてこの話を引用しています。仏になるのに年を取ったか幼いか女人かどうかなど関係ない、という話です。

妙信尼は仰山慧寂の弟子で、女人ながら優れた人だというので会計や渉外をつかさどる役についていた。その役にあるとき蜀の僧17人が仰山の元へ行こうとして、夕方に妙信尼の院で宿をとった。そこで休憩している夜の話の中で、この六祖慧能の風幡の話が出たが、17人のそれぞれが言うのが全く理にかなっていない。妙信尼は

「十七頭のめくら驢馬よ、惜しいことにどれだけの草鞋を履きつぶしたのだろう。仏法はまだ夢にもご存じない。」

といった。これが十七人の耳に入ったのだが、僧たちは少しも恨みに思わず自分たちを恥じて、妙信尼に教えを乞うた。すると妙信尼は

「近う寄りなさい」

十七人のものが近づいていくときに妙信尼は

「これは風が動くのでもない、幡が動くのでもない、心が動くのでもない」

と言った。すると、十七人は同時にはっと気が付いた。そこで礼を述べ師弟の儀を取って、結局仰山の元には上らずに蜀に帰った。(中央公論 日本の名著 道元 から抜粋し少し端折ったりまとめたりして書いています)

 

固視微動だったとしても動いているには違いない。もしそういうことなら、妙信尼はこういう言い方はしかなかっただろうし、道元も称えたりはしなかったはずである。

どうせ問うなら、その「微動したというのなら、その微動した前の視線はいったいどこに行ったのか?」と聞くべきだろう。

(続く・・・たぶん、後2回分ぐらいは書かないといけないと思います。)

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