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生神女 (6)

パソコン移行作業中につき、メールが拝見できていないケースがあります。ご容赦ください。たぶん古いパソコンでの記事はこれが最後になるだろう。

さて、生神女については、古今東西で数かぞえきれない伝承がある。その世界の外にいる人にとってはそれは当然「まゆつば」ということになるわけだが、中にいる人にとっては大真面目だ。

たとえば祭りになっているものでは生神女庇護祭というようなものがある。イスラムと戦っている最中に、生神女が祈っているさまが空中に現れた、というようなものだ。始終イスラムに脅かされていた正教会ならではの祭りといえる。

カトリックさんではたとえばルルドに出現したわけだが、彼女は自分を「無原罪のお宿り」とベルナデッタに言った。この無原罪というのは逆にカトリックだけの教義だ。それからフランスに聖母がぶどうを摘みに来る畑がある、などとも言われている。

それが嘘っぱちなどというつもりはないが、かなり時代も下り、それぞれの土地や宗派の状況を反映しているという点で、ひょっとしたら仮にマリアさんが見えたとしても、信者さんの思い込みの心理現象云々で説明しようとする人もいるかもしれない。

 

しかし、エジプトの聖マリアの話などはどうだろうか。このエジプトのマリアは生神女とは別の、5世紀か6世紀ごろの方です。砂漠に修行に入ったゾシマという修道士が彼女の晩年の姿を見たためにその存在が知られるようになった。ゾシマは彼女が空中浮揚したり、何も言っていないのに自分の修道院の問題を次々指摘したり、学んでもいない詩篇を自由に引用するさまを記録した。

このマリアは、もともとエジプトで売春婦をしていて、多くの男たちをかどわかしてきた。そして男たちと船に乗ってエルサレムにやってきて、人々とともに祭りをしている聖堂に入ろうとしたところ、強い見えない力で入り口で跳ね飛ばされてしまいどうしても聖堂に入ることができない。そして、入り口の生神女のイコンに今までの自分の行いを悔いてとりなしを求めたところやっと聖堂に入ることができた。その後、彼女は生神女に導かれて砂漠に入り、その指導のもとで修行することになった。彼女は砂漠の中で食うにも困る状況で根っこでもなんでも食べられるものは食べないといけなかったわけだが、それ以上に自分の欲望やみだらな歌が思い浮かんでくることに対して、まるで猛獣と戦うように戦わなければならなかったと告白した。その都度生神女は彼女を厳しくしかったのだ。

 

と、話はそういうことになっており、エジプトのマリアは正教だけではなく、カトリックや聖公会でも聖人として慕われている。

だけど、この話だと、まるでその場に生神女は生きていて立ち会ってるみたいじゃないですか。そうすると、「そんなことありえない」という話になってしまう。普通は。

しかし、これを「ありえない」といってしまうと、キリスト教の世界で何がありえるのか。死後はほかの普通の人と同じように、死んでそれでおしまい・・・それでいいのか?ほんまはいつ復活するのかわからんけど、未来の復活を信じて死ぬ、というだけでは結局好き勝手に発行できる不渡りの手形みたいなもので、別にキリスト教でなくてもいいじゃないか。

自分は、たぶん当初、生神女にはかなり信頼できる実態、ほかのお弟子さんからも十分に心の支えとなる実態、また霊的な達成という実態が、当たり前だけど、あったと思う。それはありません、と言い切ってしまうなら、たぶん別にキリスト教でなくていいと思うんです。それ以上のことは、われわれ自身がその事実の確認をできる程度の達成をした時点で考えればいいのではないか。

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