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聖書の宗教 (2)

自分は、小学校の時に「新約物語」とか「旧約物語」みたいなのを読んで、中学校で一応新約とモーゼ5書とか列王記ぐらいまでは読んだ。
当時は読めばどんな本であっても大抵のことは理解できた。スポンジが水を吸うように新しいことを吸収できた。
しかし、福音書の多くの部分は全く謎のまま残った。わからなかったのだ。
それ以来疑問に思うこと、よくわからないこと、いろいろあったけれど、何年も経ってから「あっ!わかった。これだ!」というものはいくつかある。

分かってしまえば、それは確かだ。別に聖書を目の前で燃やされても、自分がわかったことは揺らがない。多分自分が何かの障害で考えることができないような存在になったとしても、理解自体はなくなることはない。

 

しかし、他人に説明する、あるいは訴えかけるということになると、話は違ってくる。

同じ教会に来る人に、「これ、実はこうやで」と説明する際に、相手側はそうして追求した苦労、さんざん考えた経験、そうした理解はないかもしれないから、やっぱりその時には「あなたのご存知の聖書にもこう書いてあるでしょ」と説明することになるだろう。
事実自体は別に聖書がなくたって関係ない。事実なんだから。ただ、自分が伝えようとしている相手に反発されることなく、伝えたいことを伝えるためには、その人たちが旧来認めてきたものの説明を補充したり完成させたりする形で自分の知識を伝えるほうが効率的だ。

今の学問でもそうなのだと思う。主流の物理学者ならだれでも認める法則、主流の経済学者なら誰でも当然の前提として受け止めている現象や理論みたいなものがあると思う。新しい理論を提唱するなら、たとえば株式市場の動きがその理論で説明できるのかどうか、というような、既存の学問がこうだったからそれに対してこうあるべき、という考えの説明がいる。

その際に新しい考えが必ず株式市場を取り上げたものではないかもしれないし、ほかの経済現象で説明したほうがわかりやすいかもしれない。株式市場を取り上げるのは面倒くさく回りくどい作業かもしれない。だが、人に納得してもらうためには必要なのだ。

 

ひょっとすると、キリストや使徒は聖書には何の関係もなかったのではないか?彼らは直接に真実を知る何か新しい道を切り開いた。福音書には、そのように延べ伝えている。「あなた方は聖書の中に真実があると思って探しているが、その聖書は私についてあかしするものだ」

しかし、一旦教団が出来上がったのち、彼らは古い体制に言い訳をする必要に迫られた。彼らは夜に謎の儀式を行い、カバリスト、人肉を食う人々と言われ、怪しげな新興宗教だった。外向けには「そうではないのだ。我々は伝統的に正しい、まさに予言された通りのことをしているにすぎないのだ」と言う必要があった。

 

恐らくスタートして200年ほどの間、キリスト教は聖書色の強い宗教ではなかったと思う。そしてローマの国教になるに及んで一応の体裁が取り繕われた。

そして、それが普及するにつれ、その「一応の体裁」が力を持ち始めた。最初の動きはカタリ派だった。
カトリックの司祭は祈祷を知り聖変化を執り行った。自分たちが伝えてきたキリスト教の一通りの事柄には精通していた。しかし、聖書を熟読して聖書を盾に理詰めで議論を仕掛けてくるカタリ派・リヨンの貧者といった異端者に司祭・司教はてこずった。
そしてカトリックの暴走が始まった。軍隊をもって彼らを制圧したのだ。
そして最終的にはそれはプロテスタントへつながった。ほかのものは頼りにしない。聖書のみだ!

キリスト教は聖書に軒を貸して母屋を取られた。

 

そう考えると、何もかもつじつまが合うような気がするのです。

 

とはいえ、では「もともとのキリスト教とはなんだったのか」を考えるよすがも聖書だということは言える。今、我々の手元にはそれしかない。・・・いや、探せばそれ以外のものもあるにはあるが、あまり知られてはいない。それに福音書は十分伝えたいことを書いている。

 

自分は、今日「いったん聖書から離れてみたらどうだ」と書こうと思ったが、それは今の私だから言えることだ。自分が若いころ本を読むのに苦労しなかったし、あちこち行ったりもできた。恵まれていたんだ。

しかし、一旦立ち止まって自由な目で「真実は何か」ということを考えてほしいと思う。自分にとっての真実とは何か。常識的に考えて真実とは何か。ほかの人はなんと言っているのか。

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