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預言 (3)

自分は、多分預言というのは、普通に行っている思考と同じ種類の現象ではないかと思っている。ただ、預言では知ることができるはずのないことを知り、普段なら見ることができないものを見る。

 

普通の生活で、簡単に言うと「自分」というのは言葉の繰り返しだ。「これは~だ!」と判断し、それを言葉にする。それを言葉にすることにより、それはリアルなものになる。たとえば、その言葉で定義されたものを欲することができるようになる。どこかの店でシェークを食べた。それまでシェークというものを食べたことがなかった。ところがシェークを食べたらとてもおいしかった。そこでシェークをまた食べたいと思う。

こうした判断と命名の繰り返しが思考を形作っていて、自分は要するに思考である。手の届く範囲にあるラベルを張った幾つかの出来事の繰り返しが、思考であり自己である。

 

普通の理性にとって、ハッキリしていることというのは繰り返しによってもたらされる。

私はあそこの角を曲がると郵便局があると主張している。昨日もあったのだ。友人はそんなところに郵便局はないと主張する。じゃ、行ってみようじゃないか、ということでそこの角を曲がった時に、いつもの郵便局があれば、私の言っていることが正しかったと確認される。ま、そういうことですよね。

 

しかし、自分が延々と繰り返す言葉に過ぎないというのは、なんか変じゃない?そう思いません?自分はそれだけの存在なのか?

それで人は沈黙の側に乗り出す。

 

今の今、ずっとその今、ずっと注意力を保って、判断することを保留し、名前を付けることを保留し、思考しないということになったときに、何が世界で何が確認なのか。禅の皆さんが仰るように無だ、ということでいいのかもしれないけど、無というのは何のアイデアもないから馬鹿で何もわかっていない状態なのか。

 

ところがそういうときというのは、逆にハッキリ物事がわかるように感じるんだよね。言葉の引っかかるものがないのだけれど、自分は何もかもわかっている、と感じられる。その時に思考はないわけだけど、じゃあ思考はないのかというと、わかるように思えるわけだ。

そういう状況でも人は何が自分に起こっているのか、言葉を紡ぎだそうとする。自分が考えているのでないなら、いったい誰の考えなのか?

 

自分もそういうところまでは思うのだけれど、本当は見えるはずのない遠くのことを見たり、知ることができるはずのない未来の景色を見たり、普通の人が決して見ることができない天使のいる場所が見えたり・・・といった、いわば人に見せられるような不思議はありません。ただ、多分そういうものを見ている人も、それが何かわかるというようなこと、何か言葉にするというようなことを、自分自身が意図しているわけではなくても人間という器に合わせるために言葉にして紡ぎだしているのではないかと思うのです。佐村河内じゃないけど、言葉が降ってくるわけだ。

多分、多分ですよ。

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