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信じなければならない (1)

(1) って書いたけど、続けて書けるかな。

今年になって、色々な契機に伴って、「信じなければならない」と思う。懐疑的、ニヒルな態度というようなものは改めなければならない。それで、なぜそう考えるに至ったか、書いておかなければいけないと思う。

 

で、まあ、ざっと信仰心ということになると、普通は「何かを信じる」「何らかの前提がある」ということになるわけだ。宗教をやっておられる方には色々反論もあるだろうが、少し掘り下げてみる。

たとえば真宗さんとかの場合には、阿弥陀仏の本願というのがあって、すべての衆生を救うまでは涅槃に入らないという誓願を阿弥陀仏が立てているから、阿弥陀仏を頼めば必ず浄土に生まれ変わってそこで仏になる、という前提がある。

キリスト教の場合には信ずべきことがニケア公会議で決定された。多少考えが違ったり理解が未熟だったりしたとしても、その信仰箇条を認めたものは信者として洗礼を受けることができる。「我信ず、一つの神・父・全能者、天と地見ゆると見えざる万物を造りし主を。・・・・・」というのを洗礼の時に言わないといけない。

 

だけど、イエス自身が「信じろ」と言ったときには、その「信じろ」という言葉はそういう前提条件があったのだろうか。結果的にあるのかもしれないとも思う。だけど、その場ではそういう複雑なことは何も彼は言っていない。「信ずるか?」「主よ信じます」これだけなんだ。

イエスはイチジクの木が実をつけていないのを見て、その木を呪った。なんとも短絡的なような気もするが、夕方通りかかると木は枯れてしまっていた。お弟子さんたちが不思議に思って主に聞くと、彼はお前たちが信じて疑わなければ、あの山に命じて海に入れと言ったとしても、言ったとおりになるだろう、と仰った。この時に別段、主は「光栄を現してまた来たり、その国終わりなからん、を」信ぜよとか何とか言ったわけではない。動け、枯れろ、静まれ、そういうことしか言っていない。

 

ほな、たとえば南無阿弥陀仏と唱える人がいて、その人の重要な部分というのは、浄土に行くことなのか、浄土で成道することなのか、阿弥陀仏なのか観音様なのか、本当はひょっとすると大事なのはそこではなくて「(阿弥陀さんのおかげか・・・なんかようわからんけど・・・とにかく)絶対救われるのだ」的な部分こそが、「信じる」ということなのか?

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