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悟りは感情か?

いつしか・・・あの可能性、この可能性というものを考えるようになっている。あれができないといけない。あれが達成できないといけない。

 

それは、本当は不満、あるいは不安、恐怖なのではないか。自分はこうあるべきである。あれを達成しなければいけない・・・達成しないで終わるのではないか・・・達成されるべきものを得ていないという評価。そういう評価が怖いのではないか?

 

誰がそんなことを気にするの?

いやいや、可能性自体はあってもいいんだ。可能性を求めるのは、たとえば愛でもいい。好きこそものの上手なれ、というではないか。

あれがないのではないか、これが足りないのではないか。不満。恐怖。

しかし、現実には、お前、明日死ぬかもしれないじゃないか。もし死んだら、あさっての保険はいらない。あれこれ達成するはずのものごとも無理だ。

 

ひょっとすると、その不安や恐怖がないということで、事足りるのではないか。

不安。後ろ指を指されるかもしれない。馬鹿と思われるかもしれない。恐怖。こうしたものは一種の感情である。そして、そうではない状態というのも感情である。それは特殊な感情状態である。滅多に起きないのだ。

多くの場合、最終目的、「悟り」について、人は理知的な説明を加える。そちらが本質なのか。それとも、この「恐れない」ということ、一種の満足感、この独特の感情こそが、悟りなのではないか。理知的な説明が間違いだというわけではないが、それはその核ではないのではないか。

理知的な説明というのは、理性に訴える。さらにああだ、さらにこうだ、などという人が現れる。本当はそういうことを言いだす奴というのは、大抵の場合、大したことは言っていないのだ。娑婆では飽き足らなくて浄土だと言い始める。ダンマでは物足りなくて空だと言い始める。
アートマンでないものをアートマンと呼ぶ間違いを犯す。しかし、アートマンであるものはアートマンでいいのか。それともそもそもアートマンは存在しないのか。
そうした議論は哲学的に正しいのかもしれない。しかし、それがそんなに重要なポイントか?

その感情こそが、最終的なバロメーター、最終的なよりどころなのではないか。何にも頼らないというのであれば、後付けの説明が何であろうと関係ないじゃないか。そして、おそらく彼にはそうした説明も自然にやってくるだろう。

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