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夢を自由にできるというようなこと、何か不思議なものを見るというようなことは、力の仕業といえると思う。

 

力は、意識的にまっすぐそれを求める、というようなものではないと思う。たとえば、何かを達成しようとして努力をする、その際には、求めているものは「速く走れる」だとか「金持ちになる」だとか、そういうことだと思うのだが、そういう努力の達成によっていつの間にか副次的に積み重なっているようなもの、といえると思う・・・ということになると、一般的には達成の基準がないかのように見えるわけだが、しかし、夢は一つの達成のバロメータだと思う。

夢というのはコントロールできないのだが、同時にコントロールできる。昼間の意識と連続していないのに、意識的、連続的、意志的なものであり得る。夢をなんとかできた、夢に意味のあるものが見え始めた、ということは、力に触れたということだといっていいと思う。

 

お釈迦様のおっしゃってることは、聞いている人にはよくわかるように感じられる。

それで、多くの坊さんが、煩悩の試すためだとか何とか言って、酒を飲んだり女を抱いたりする。それを正当化しようとする。

 

あれ、やっぱりダメだと思うな。一応、顕教で仏さんの理屈を勉強するというのは、それはそれでいいよ。だけど、それとは別に力はいると思う。そのことはお釈迦様はお考えになっていたんだと思う。ご自分も結婚して子供をお持ちだったわけだし、アーナンダ尊者にも女は見るなと仰った。お釈迦様は嘘も方便で、でたらめなことを仰ったようにも見えるけれども、修行については厳しかった。守るべきものを守れと要求した。もし、独身でいるという戒律が守れない状況だったとしても、在家なら在家で修行するという道もあるわけだからな。

 

仏教の話はひとまず置いたとして、要するに強い目的意識をもって臨むことが、徐々に力をため、意志を形作る。意志は力とともにある。その意志が、夢の中で手を見つけさせたり飛ばせたりするのだと思う。

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