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光栄は爾に帰す

Δόξα σοι, ὁ θεός ἡμῶν, δόξα σοι.
(doxa soi, ho theos hemon, doxa soi)ゾクサ・シ・オ・セオス・イモン・ゾクサ・シ。
日本語では「我らの神や、光栄は爾に帰す、光栄は爾に帰す」と訳されている。

いや、どう表現していいのか、自分の考えていることを表現できない。

そのきっかけは今日たまたまmiwaさんという人がNHKの合唱コンクールの課題曲を作った云々でテレビで歌っているのを見たのがきっかけだった。歌詞には「君の中に眠っている力がほしい」云々と言っていた。別に責めるわけじゃない。だけど、違うんだ。

それは、違うんだ。神がない。神という事実がない。だけど、それをどう表現していいかわからない。

 

神という思想において、個というものは大事にされない。

個というものは量的に限定されている。たとえて言うならば、20リットル入りの灯油缶のようなものだ。君の中にある力がほしい。20リットル入っていることに君は気づかない。ほんの3リットルのところで君は出し渋っている。ついては15リットルほど出せるようにしてほしい。

別にmiwaさんを取り上げなくても、日常的に我々はそう思っている。自分たちは限られた瓶詰の油だ、としか思っていない。だから彼女の歌詞は人々に確かに届き、私のたわごとはたぶん届かない。

 

しかし、そうではない。

君は水力発電所のようなものである。電気を生み出すことができる。そして、確かにその性能もある。20ワット発電できるダイナモもあれば100ワット発電できるダイナモもある。磨くことによって、もっと発電できるようになるかもしれない。
だが、最も違うことは、川の流れは灯油缶に入っている油とは違うということ。源は無限なのだ。
君は変電所である。今現在、100戸の家庭に100ワットの電気を提供している。もっと太い線をつなぎ、もっと効率の良いやり方で電気を受け取ることもできる。だが大事なことは、その電気の起源は別にあって、それは無限に提供されるということだ。

風は思いのままに吹く。人々はその音を聞くが、それがどこから吹いてくるのかは知らない。

 

だから、光栄が神に帰すという場合、それは何か古めかしい時代遅れの信条として唱えられているのではなくて、実際に自分の命がそうだ、ということを見るべきだ。

神を信じているということは、その実感を持っている、ということだ。そしてその実感こそが、多分とても難しいことなのです。

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