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私は渇く

ときどき、聖書で変な訳がある。

「私は渇く」というのは、十字架上でキリストが言った言葉として知られている。

元の単語はδιψῶ (ディプソー) という言葉なのだけれど、これは一人称単数で、「私は喉が渇いた、何か飲みたい」という動詞である。


ギリシャ語では動詞にアオリストと不完了体の区分がある。これは名称は違っていても、英語を除く多くのヨーロッパの言語で普通のことである。

アオリストは一般的には過去形のことでもあるのだけれど、未来形であったとしても、すぎゆく一つの出来事として語られることをいう。たとえば「私は本を読みます」「本を読んだ」というのは、読むというのが終わってしまう一つの出来事として考えられている。昨日読んだら読んだ、明日読むなら読む、ということだ。
一方、昨日読んでいたというのは、昨日のある時点でそれが終了したのではなく継続した出来事だと考えられている。明日あなたがおいでになったら多分私は本を読んでいるでしょう。昨日私は本を読んでいました。この場合読み終わったかどうかは関係ない。あるいは私は当時あの本を何度も読んでいた、のように繰り返して行われる行為がある。

こうした2つのケースで、ヨーロッパの言語は言葉を使い分ける。

もし、彼がδιψήσω(ディプシーソー)と言ったなら、彼は未来において渇くということを表明したことになる。だから、「私は渇く」という日本語で正しい。しかし、ここではδιψῶなので「現在渇いた状態が継続している」ということになる。英語でいうと、I am thirstyと仰ったわけで、英語の聖書の方は大体そうなっていますね。

日本語では「のどが渇いた」が正しい訳ですよ。その小難しい解釈は別にして、十字架上で苦しんで「のどが渇いた」と仰った。

 

日本語の聖書を訳した人は、それを一つの動詞で言わないといけないと思ったのかもしれない。でも、「私は渇く」は明らかに誤訳なんです。

 

細かいところでは、日本の聖書にはそういうところがいっぱいあると思う。ひどいのは、教義的にこういう結論にならないとおかしいというわけで、無理やりその時制や仮定なんかに変えてしまっている場所。

ただ、変な話だが、エホバの証人さんの新世界訳は、この部分は正しく訳している。エホバさん、きらいなんだけど、ときどき「この聖書の訳変だよなあ」と思って確かめて見ると、実は新世界訳が正しい場合は結構ある。

日本の教会の皆さん、あなた方、問題だよ。あなた方がそんなだから、みんながおかしな方向に行くんじゃないか。

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