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真実の世界の描写

私は折に触れて、目の前に三次元の世界などない、あちらに見える山と網膜に映る山とあなたが認識する山に差異はない、空間は存在しない、あると思ったものは過去のもので存在しない云々と言っている。

 

哲学なんかだと西田幾多郎などという学者がいて、自他が未区分だとかなんだとかそういうことをいう。禅なんかだと無我などという。あれは別に何かを一生懸命にやってて我を忘れているということではない。

 

十分に批判的な人、理性的な人であれば、こうしたことは必ず理解できる。

問題は、三次元の空間ではなく、原子論ではなく、時間がない、目の前の世界とはどんなものか、ということだ。

 

お釈迦様は、その説明を拒んだ。わかることでもそういう説明はしなかった。
お釈迦様がそういう態度をとったという説明が様々な逸話にある。嘘も方便というのもそうだ。夜空がとても美しいが家の中にいる人は外に出てみようとしない。そこで、火事だー!というと外に出る。そこで空を見れば、その美しさはわかるというわけだ。
自分で見なければわからない、と思ったのだと思う。

 

見ればわかる。そうだろうか。

見ないとわからないというのはそうだと思う。

しかし、見ても、驚くかもしれないが、何もわからないかもしれない。どうしても、今までの世界の嘘はわかったにしても、真実の世界も結局は三次元の空間だという考えから抜け出せない。人は新しいワインは手に入れても古い革袋しか持っていない。その世界には非常に多くの可能性がある。すべての真実は真実なのだ。

 

結局、真実の世界の描写が必要だ。

それは、ヨハネの福音書の冒頭のようなものになるだろうと思う。

普通の人生にその言葉が受け取られても、何のことだかさっぱりわからないというものになる。だが、ちらっとでも見た人には、今まで意味のなかった言葉が「ひょっとしてこれはああいうことを言っているのではないか?」と思えるようになる。

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