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撃とうと思うな

なんか、突拍子もないようなことを思いついたのだが、忘れてしまった。というか、うまく言葉に出来ないような。しかし、書いてみます。

AさんとBさんは一緒に暮らしている。Aさんはバターは飽和脂肪酸だから摂取したくない、マーガリンは植物性由来だから健康的だと思っている。Bさんは企業が植物油に人工的な加工を施したマーガリンは信用できず、菜種油に認知症を起こす成分があると聞いたので、バターを摂取したいと思っている。

買い物に行ったときに、Aさんはマーガリンを買おうとしBさんがバターを買うのに反対する。一方でBさんはAさんがマーガリンを買うのに反対しバターを買おうとする。

さて、どうすればいいのか。

まず、どちらが正しいかという問題がある。

Aさんが最終的に正しいのなら、マーガリンを買えばよい。Aさんは自分の方が正しいと主張するためには、そういう証拠を集めなければならない。たとえば動物性の脂肪をとった人がこれだけたくさん死亡しているとか、データを見せる必要がある。
それはBさんも同じで、Bさんはバターの方がいいという研究結果を調べることになるだろう。
これには様々な批判的な見地があり得る。たとえばBさんはAさんの研究結果を見て、調査の分母が少ないから証明できないというかもしれない。AさんはBさんの理論は一見正しく思えるが調査結果が伴っていないというかもしれない。これが正しいと証明されるには、たとえばバターを30年取り続けた人が60歳になったときにどういう健康状態かという追跡調査がいるかもしれない。

しかし、もう一つの重大な問題は、いまマーガリンかバターを買わなければならないということ。今から30年もバターを買わずに済ませるというわけにはいかない。

AさんBさんとも、調査結果は十分に示せないということは分かっていても、自分が正しいと思っている。お互いを説得しようとするだろう。いや、しなければならないのだ。

そう、行動というものは、とにかく今それが正しいと決めて突っ走らなければ結果を実現することができないのです。

 

で、一人の人間の思考・理性は、行動する際に十分にその根拠を用意出来ないまま、突っ走るほかはなく、必ず理性的な前提が信頼できるわけではない、みたいなことを考えていた。

 

だが、思いついたというのはそういうことではない。

つまり、一般的な意味での「する」ということは、実はこの「マーガリンを買う」「バターを買う」というのとすべて同じなのではないか、ということ。

あらゆる局面で、あれを考え、これをしなければならない、歯を磨き、顔を洗って、昼食のラーメンを湯を沸かし、郵便局に行って、記帳をするとか。それはその行為の少し前にその時間軸に対していわばスタティックに数種類の前提を横に並べて「これが正しいのだ」という前提のもとに、その行為を行っているわけだ。

 

我々の頭の中では、「完璧なトースト」が前提されている。食パンは○○社のなんとかというブランドのモノで、購入後5年ほど経ったこのトースターでは長めの4分ほど焼いて、○○社のマーガリンを薄く塗るのだ。

しかし、ある行為を行うには準備が要り、その準備には一定の時間がかかる。その準備が30年かかるということになるとその行為は見切り発車しなければならない。正しいか完璧かわからなくても、バターかマーガリンを買わなければならないのだ。

しかし、仮にそれが30年でなかったとしても、実は我々の行為はいつも見切り発車なのではないか。にもかかわらず、我々は完璧な行為というものを前提している。

 

行為というものを、その行為に先立つ前提から解き放つことは出来ないのか。

ブルース・リーの名台詞「考えるんじゃない。感じるんだ。」とか、マトリックスの中のセリフで「撃とうと思うな。撃て。」というのがあったが、そうあるべきなのだはないか。

みたいなことです。なんか表現しきれてないような。

2 thoughts on “撃とうと思うな

  1. あめ

    それぞれ好きな方が買えば、って話ではないんですよね(笑)

    明日なんてある保証はないのだから、今この一瞬、自分が「したい」と思った行為をすればいい、と
    いま、あちこちの「宇宙理論」みたいなものでみかけます。
    最近心理学の本も読んでいますが、ある本でもやはり「人と自分の課題の線引き」と書いてあります。

    AさんとBさんはそれぞれ自分の正しいと思うことを相手に伝えてみればいいけど、結果を選ぶのはそれぞれなので、
    折り合いがつかなければ各自好きな方を買えばいいと思います。
    伝えるまでは自分の課題、それを聞いて決めるのは相手の課題。

    長年準備が必要な行為も、その準備をしている「今」を楽しんで行う。
    たとえ途中でとん挫してしまったとしてもそれはそれ、と思えれば、前提から行為を少し解き放ったことにならないでしょうか。

    返信
    1. simpledirect 投稿作成者

      あめさん、こんにちわ。

      AさんBさんを持ち出したのは、何が正しいかを証明するまで待つことができないということを言いたかっただけです。
      我々は何が正しいかを最終的に判断することなく、それを行わないといけないということなのです。
      そして、実はそれが行為そのものの本質だということ。

      楽しい。いいかもしれない。楽しいということは、前提を越えるものになるかもしれません。
      もし行為をしなくても楽しいであればなおよい。

      返信

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